2008年7月12日土曜日

テリトリー

人は何故、他人を認めることが出来ないのか?
認めようと努力しないのか?
何故だろう?

最近つくづく思うことがある。
誰もが自分が正しいと思い、自分と違う色を持っている人間を間違いと言う。
ただ、それがいけないという訳ではないのだ。
自分が正しいという信念がないと、自身というものが形成されない。
だから、逆にそう思うことはとても大切なことである。
しかし、ほとんどの人間が自分の色が正しいからといって他人までその色に染めようとする。
そして、染まる人間は自分の仲間、染まらない人間は敵と捉える。
それは本当に正しいのだろうか?

最近読んだ本の内容もそのことで悩んでいた。
「本人は人と同じことをするのが嫌だ」という信念の元生活をしていた。
大きな流れは他の人と変わらない道を歩んできた。
しかし、その中のちょっとしたことが他人と違ってただけで、周りの人全てから「おかしい、近づくな」といった感情を持たれ出した。
本人は何も間違ったことをしていないのに・・・。
自分の人生を、自分だけの生き方で過ごしているだけなのに・・・ 何故?
その本人も悩んでいた。
自らを殺し、周りと同じことをしていればこんな風にはならなかったのだろうか?
しかし、何故自らを殺さなければいけないのか?
その狭間で苦しみ、もがいていた。

本当に正しいものがなんなのか?

何が間違っているのか?

何も間違っていない。

全てが正しいのだ。

「十人十色」という言葉があるように、十人いれば十通りの色がある。
それでいいではないか。
無理に同じ色に染めることはない。
それぞれの色があるから美しいのだ。
それぞれの色を認めることで、自らの色も引き立つ。
別の色を自らの色に染めてしまうことで、自らは際立たなくなる。

何が正解で、何が間違いということはない。
全ての色を認める努力をし、全てを認めることが必要なのだ。
自らの色をしっかりと持ち、別の色を認めることで新たな色が生まれることがある。
そうすることで、別の色同士が共存することが出来、お互いの成長を促すことが出来るのではないだろうか?

しかし、現状ではほとんど認める努力も出来ていない。
自分の見解で話し、相手がどういう考えなのかも確かめず決め付けてしまう。
それが、仲間なのか敵なのかまで・・・。
そして、色を挿すに留まらず自らの色に染めようとする。
これは、仕方のないことかもしれない。
今までの年輩者が作ってきたレールに乗り、決められた枠の中で生きていくのは間違いない。
世間の正誤はそんな簡単には変わらないのだから。

しかし、自分でどのレールを歩んでいこうか?
はたまた、新しいレールを自らが作っていこうか?
小さな枠の中で生きていこうか、大きな枠の中で生きていこうか?

悩み、決断するものもいるのだ。
実際、決められたレール、枠から抜け出せていないこともあるが・・・。
そういった人間もいることを認めなければいけない。

2008年6月27日金曜日

お金 + 暇 = 身体 - 若さ

最近、深イイ話を聞いた。
タイトルにもなっている方程式である。

人間は誰しもお金が欲しい、暇が欲しいと願うだろう。
しかし、実際に得てしまうとどうなるのだろう。
今回聞いた話では、「お金と暇を得た身体は若さを失ってしまう。」というものだった。
これらを得た時に失うものは1つや2つではないだろう。
その中でも若さというものを天秤にかけて表現している。
ここでの若さとは肉体的な若さもあるが、精神的な若さの意味も含めている。

これを聞いた時、共感を得る部分があった。
実際に、お金と暇の両方を手に入れたことがないから全てに共感するということは出来なかったが、暇は手にしたことがある。
忙しい中での長期休暇、もっと大きな暇を挙げれば大学時代の4年間である。
人間は無いもの強請りで暇が欲しいと願うが、実際に得てしまうとそれ程良い気はしなかった。
何をするでもなく、ボーっと過ごし無駄な時間を過ごすことが多かった。
そんな生活が続く中、自分の中の何かが崩れ去る感覚があった。
それが、若さという言葉に共感を覚えたのだ。

暇を手に入れるだけでそれだけのことを感じるのだ。
これにお金も手に入れてしまうと・・・
結果は大体予想が付くだろう。

しかし、手に入れたとしてもこの方程式が当てはまらないこともある。
それは、常に上を目指している人である。
十分なお金を手に入れても、まだまだと思っている人は若さを失うことは無く今まで通りだろうし、暇があっても忙しく過ごす人も同様である。
自分が十分だと思ってしまった時点で人は衰えだす。
この方程式は、自分が満足しているというカテゴリーの中でしか成立しないのだ。

今の自分は、まだまだこの方程式と比べるところまで達していないが、もし達したとしてもいつまでも満足はせず上を求めて若く在りたいと思う。

(お金 + 暇) × 向上心 = 若い身体  の方程式になるように・・・。

2008年6月23日月曜日

思考<行動

人はいつからか、理由を求め、意味を求め、結果を求めてきた。
全てを求めて来たのだ。
自分の求めるものを効率よく手に入れる為に、人は考えることを始めた。
いらないものを省く為に・・・。

人間の生理的行動、生きる、食う、寝るというものに考えることが必要だろうか?
頭で考えなくても、体が欲し、その欲求に答える行動をとる。
頭で考えなくても体が知っているのだ。

人間は、無駄を省くために考える。
体の欲求を押さえ込んでまで頭で考え実行する。
本当にそれは無駄なのだろうか?
無駄に思えるかも知れないが、実はとても重要な事なのかもしれない。
省くことが正解なのか。
人は体でも考えることが出来る。
その答えは、何の不純物も含まない純粋な答えなのだ。

今のこの世界、頭で考えることが渦巻いている。
考えなければ生き難い世界になってしまっているのだ。
だから、頭で考えることは仕方がないだろう。
しかし、煮詰まってしまった時や、答えが見つからない時、そういう時は思い切って行動を起こしてみる。
そうすると、頭では考えも及ばなかった答えが、体が一番欲していた答えが見つかるだろう。


理由、意味、結果というものは後でも考えられるのだから。

2008年6月18日水曜日

自らを魅了する

先日舞台を見る機会があった。
巷で噂の早乙女太一の舞台だ。

ある時期をきっかけに、いろんなものに興味を持とうと思い、最初に行動に移したのが今回だった。
最初ということもあり、何か自分に変化をもたらしてくれるだろうという期待と、もしかしたら何も感じないのではないかという不安を半々に持ち会場に向かった。
何をするのかも知らない。
実際あまり興味もなかった。

しかし、始まってみるとそこは今までと違う空気に包まれた。
会場中の客が舞台に魅せられているのだ。
芝居にのめり込んでいるのだ。
一言一句のがさまいと聞き入っているのだ。
中には、魅了され芝居の脚本に涙する人も出るほどだった。

自分よりも若い早乙女太一には何があるのか?
そして、自分には何が足りないのか?
答えを導き出すのにそれほど時間は掛からなかった。
簡単なことである。
人を引き付ける魅力があるかないかなのだ。


プロだから引き付ける魅力があるのかもしれない。
引き付ける魅力があったからプロになったのかもしれない。


今の自分には、自らを引き付ける魅力さえない。
人を引き付けるとまではいかなくてもいい。
最低でも自らを自らに引き付け、自分に自信を持てるようになりたい。

自分の魅力は何なのか?
見つかるまで時間が掛かるかもしれないが、探してみようと思う。

他人から得られることは、予想以上に多く、そして大きなものである。
今後も機会があれば、いろいろなことに挑戦してみよう。

2008年6月16日月曜日

行動を起こす時の天秤

叔父さんと話すことは好きだ。

いきなり何を言っているのだと思うが、たまに、ある叔父さんと話す機会がある。
周りの皆は、「説教じみてて嫌だ」などといったことを理由に嫌がっているが、自分はそういった話が好きなのである。

今回の話の内容は「継続」についてだった。
継続するということが大切なのは、誰もが小さい頃から教えられ知っている。
まぁ、叔父さんの話も根本は同じことを言っているのだが違う観点からの見方を話してくれる。

分かりきっていることをストレートに教えられても、誰もが「そんなこと知ってるよ」という気持ちで話を聞くだろう。
しかし、少し違う観点から教えられることで、分かりきっていることであってももう一度考え直すという行動を起こすのだ。


今回の「継続」についての話は、ただ続けることが大切ということだけではなかった。
続けることはどんなことに関しても大切である。
それは、自分にとってマイナスをもたらすものであってもだ。
自分が嫌だと思っていることであっても、継続することでそこだけでしか得られないものを得ることが出来る。
しかし、そうやって得られたものは自分にとってプラスに作用するかどうかは分からない。
マイナス面だけで終わってしまうことかもしれない。
しかし、継続することによって何か得られることは絶対なのである。
また、ただ継続し続けることが大切という訳ではなく、マイナス面を避け、新しいことに挑戦することもそれはそれで大切なのだ。
早い段階で新しいことに挑戦し、それを継続し続けることでそこでも何かを得ることが出来るだろう。

何が正しくて、何が間違いということはない。

全て、正しいのだ。
どんなことであっても継続によって得られるものはある。
今のまま続けて得るものか、別のもので得るものか、どちらが大切で自分の為になるものかを行動を起こす前にしっかりと考え、天秤にかけ選択する必要がある。


といった内容の話だった。
今、自分は選択を迫られる状況に立たされている。
例え、苦しく険しい道に入ろうと、全てが正しかったと思える選択をするために、目先だけにとらわれず天秤に掛けて行きたい。

2008年6月13日金曜日

体はアツく、頭はクールに

最近、ブログを始めたこともあり、自分と向き合う時間が増えてきた。
自分と向き合うとどうだろう?
良いとこや悪いところが露わにされる。
それだけなら良いのだが・・・。


それ以外にも、自分のやりたいこと、今の状況について、人生に満足しているのか、どこに向かって行きたいのかといったことまで見えてくる。
見えてくるといっても、具体的なものは何一つとして見えない。
今までの状況では考えなくてもよかった部分が、表面化し、考えなくてはならなくなるのだ。

実際にいろいろと考えてみた。
しかし、何一つとしてしっくりとはこないのだ。
逆にどんどんと深みに嵌り、悩むというサイクルから抜け出せなくなってしまっている。


そうしている内に、頭がアツく燃え上がる。
しかし、体は行動に移せない。
その葛藤の中で、頭の中を整理することは出来ず、どんどんと頭でっかちになっていく。
考えれば考える程、自分の体を縛り付ける鎖は締まってくる。
頭が重くなった体は、歩くことも、這うことも出来ず立ち止まってしまう。


何も考えず、行動を起こしたい。
どれだけ動きやすいことだろう。
どれだけのことを行え、どれだけの影響を自分に与えることが出来るだろう。
動けずに考えるだけより、巨大なものを得ることが出来るだろう。


そうやって考えている自分は、また深みに嵌っていく・・・

2008年6月10日火曜日

共存するとはどういうことか

人にはそれぞれ個性というものがある。
共存するに当たっても個性を失ってはいけない。
他人に流され、他人の思うまま動いているだけでは何も出来はしない。
どんな場面でも自分をしっかり持ち、個の色を出すことが大事なのだ。


しかし、個性という言葉を履き違えていた。
自分の思うように何事も貫き通すことが個性ではないのだ。
それは、個性ではなく自己中心的な行動なのだ。
そういう行動が続けば、個性を生かすどころではなく孤独へと向かっていってしまう。
「これも個性を大事にしてきた結果だから仕方がない」と虚勢を張ってみても、孤独の世界では個性なんか無意味なのである。

では、本当の個性とはなんなのか?


それは、共存の世界に存在する。


人と共存し生きているからこそ、人と違う個性が見えてくる。
他人と接し、生きるからこそ個性を生かすことが出来るのだ。
しかし、今の自分はどうだろう?
どれもこれも共感を得ることが出来なかったら、それは個性だからと言いくるめてしまう。
それは、只逃げているだけなのに・・・。

本当の個性は、他人からも共感を得ることが出来るだろう。

先にも述べたが、個性とは共存の生活の中で初めて生きてくる。
それらを全ての人間が理解をすると、一人一人が個性というものを認めて行くのではないだろうか。
そして、多種多様な個性をお互いに認め合うことで、共存ということが初めて出来てくるだろう。


大切なのは、まずは誰でも個性を持つこと、失わないこと。
次に、その個性は自分自身の為だけではないということを知る。
(自分が自分がという個性は、本当の意味の個性ではないということ)
最後に、個性は共存の中でしか生きないということを理解する。
(他人を個性ごと認めることで共存ということが成り立つ。それは、表面上だけでなくその人全てを認めることで・・・。どちらか片方だけでも成り立たない。お互いに・・・、全世界の全ての国民同士が認め合うことで。)